レタスクラブ
  • ※本記事は森田富美子、森田京子著の書籍『わたくし96歳が語る 16歳の夏〜1945年8月9日〜』から一部抜粋・編集しました。


    家族は大丈夫だと信じていた 1945年8月9日13時〜20時(原爆投下から9時間)


    船はいつもと違う場所に着きました。いつもは長崎駅から1キロもない大波止(おおはと)という港です。しかし、その日は大波止から南に2キロほど下った松が枝(まつがえ)という所でした。着くと工員も男子生徒も女学生も皆一斉に船を降り、駆け出しました。


    途中まで3人ほどの友だちと一緒だったと思いますが、よく覚えていません。どこかではぐれたのでしょう。私はひとりになっていました。ひとりで長崎駅の方を目指しました。駅を過ぎて電車通りを真っ直ぐ3キロほど北に行けば我が家です。「ただ、真っ直ぐに」それだけを思いました。


    ところが、大波止を過ぎたあたりから、空気が熱くなり始めました。長崎駅まで5分ほどの五島町(ごとうまち)まで来た時、駅の方から迫る火の熱気はさらに強くなりました。我慢できず、近くにあった防火用水の水を3杯、頭から被りました。それでも熱くて、足が前に出ません。長崎はすり鉢状の地形です。すり鉢の底が燃えているのなら、上から回るしかありません。一旦、東に向かい、山道を伝って北に向かうことにしました。


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